2017-04-19
ついに寒い寒い冬(今年はそこまででしたが)も過ぎ、ポカポカとした日をようやく楽しめるようになってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
お久しぶりで御座います。NY支店の加藤で御座います。
今回は私の一つ懐かしい話をさせて頂きます。
自分自身の人生を思い返してみるとに、一番鮮明に残っている最初の記憶は、幼稚園の頃のものです。
私が通っていたのはキリスト教系の幼稚園で、年長さんの年にマリア様を主役とした劇をするのが、毎年の行事でした。
ついに年長になった私はその役決めの日を迎えました。
ワンパクな幼稚園児だった私は、幼稚園の先生の”マリア様やりたい人ー?”という問いかけに、
なんの疑いもなくピンと右手を伸ばし”オレやりたい!!”と大きい声を出してアピールしました。
物語の主人公になりたくてなりたくて仕方がなかったのでしょうか。ママやパパの見てる前でええかっこしたかったのでしょうか。
今ではその動機は思い出せませんが、木役の男の子も、羊飼い役の女の子もそれぞれがそれぞれの主人公なのに、
マリア様がいっちゃんかっこええ!と思いこみ、きっとヒーローを夢見る少年のようなキラキラした目をしていたのでしょう。
ただ困惑した顔を浮かべた先生が”こうちゃんは男の子でしょ”と代わりにヨゼフ様役をやることになりました。
周りを見渡せば手を挙げていた子はみんな女の子でした。
これが私の最初の記憶です。
なぜこの記憶が昔のものにも関わらずそんなにも鮮明に覚えているのでしょうか。
それはきっとものすごい恥ずかしかった記憶だからではないのかと今では結論付けています。恥ずかしかったこと、失敗したことはやっぱりめっちゃ引きずるもんなんですかね。
きっとこういうことを重ね、人はどんどんヒーローや主人公になることを避けていってしまうのではないのかなと思います。
なぜなら、赤い服を着たヒーローは嫌でも目立ちますもんね。一人の人の笑顔を作るより、100人の民衆の目の方が気になってしまうようになっちゃうんですかね。
私も今もう一度マリア様をやりたいかと聞かれても胸を張ってやりたいと大きい声で言える自信はありません。
ただ、その後の記憶を探ってみると、劇の当日、きっと私は主人公のマリア様を食ってしまうくらい主人公っぽいヨゼフ様を演じたんちゃうかなと思ってます。パパとママはそんな僕をきっと強く暖かく抱きしめてくれたんちゃうかなと思ってます。
私は別にその日のことを恥ずかしいとは今では捉えていません。後悔もしてません。むしろ、誇らしいです。だって、私以外であの時、私が男にも関わらず手を挙げたことを覚えてる人なんてきっといないやろうと思いますし。
それは時間なのか、色々な要素があるとは思いますが、きっとその経験は血となり肉となるんかなと思います。
私が今日伝えたかったのは、挑戦したその先には、失敗しても恥をかいても、なにかしらのええことがあるんちゃうかなということです。
いつまでもワンパクで無邪気でいたいものですね。人に迷惑はかけない程度に。