2008-05-27
私は札幌なんていう片田舎の都会からニューヨークにやってきてもう10年半です。四捨五入をするともう11年。もう11年か、と思って今までのことを振り返ると、なんだかあっという間だった、という気はしないのです。日本からやってきたのがたった11年前なんだ、って思うのです。なんだかこの11年間、もっと長い年月だったような感じがしてなりません。それはきっと、この11年間の私のニューヨークの生活に、びっしりと色々な気持ちが詰まっているからなんじゃないかと思います。11年間という時間の重さをずっしりと感じます。不思議なもので、1日1日が経つのはあっと言う間、この間新年を迎えたばっかりだと思ったら、もう夏なんだぁ、とは思うものの、です。
この日曜日、ニューヨークで出会って大の親友になったゆきこちゃんが日本に帰国をしてしまいました。うまが合う人、というのはいるものですが、ここまでうまが合う友人に出会えたことをとても幸せには思わないではいられないほど、うまが合う大親でした。友人ですから東京とニューヨークと離れてもきっと友情は大丈夫だと思います。でも、やっぱり同じ土地に親友が住んでいない、というのはしみじみ淋しいものです。
先週、ある企業からのオファーを受けようかどうしようか迷っていらっしゃった候補者の方に、オファーを受けられるにしても辞退されるにしても最善の選択をしてもらいたいと思い、何かよい言葉をかけてあげられないものかと考えてみたのですが、どういうわけか、ふと11年前に札幌を出てきた時のことを思い出しました。私が随分昔に札幌で働いていた時の上司で、仕事も教えてもらいましたし、人間としてのあり方も教えてもらった人がいます。こんなことを言ってはなんですが、背もそう高くなく、ちょっと小太りで、見た目は決してカッコイー人ではありませんでしたが、中身のかっこよさといったらない人です。あまり言葉の多い人ではありませんが、必要なときに必要なことを的確にアドバイスをしてくれて、心が萎えて元気がないと暖かい言葉をかけてくれる上司でした。私はその会社を辞めてからも何かに迷った時は必ず相談にのってもらっていた人です。宮田さん、といいます。ですが、ニューヨークに来ることは宮田さんには相談しませんでした。反対されるとは思っていませんでしたが、ニューヨークに来ることは実は親にも友人にも相談せずに一人で決めたことでした。だから、みんなに事後報告をすることになったのですが、宮田さんに報告に行った時に宮田さんが言ってくれた言葉を思い出したのです。自分の居場所が見つからずにもがいていた私を知っていてくれた宮田さんの言葉でした。
「何かに行き詰った時は環境を変えるのもひとつの打開策だからな。いいんじゃないか。頑張れよ。」
この言葉を思い出して、なんとなく、今、私がしている仕事の原点がここにあるような気がしました。仕事を変えようと思う時、それは何かに行き詰った時ですよね。環境を変えることで再出発をしようと思うものなのではないでしょうか。私は札幌という環境から、知り合いの一人もいないニューヨークという環境に自分を置くことで、11年前に新しい生活が始まりました。この11年間に経験をしてきたこと、出会ってきた人たち、仕事もプライベートも、全部、ひとつひとつのことが日本での経験とは重さが違います。外国で外国人として生活をするってそいういうことなんだと思いますが、私はそうやって環境を変えたことによって得られたこの11年間の重みをとても大切に思っています。そして環境を変えたことをとてもよかったと思っています。環境を変えたことで味あわなければならなかった苦しいことも辛いこともたくさんありましたが、そのおかげで手にすることができたものもそれと同じだけの重さを持っています。私が今している仕事を通して、誰かの環境を変えるためのお手伝いができるのだとすると、私の仕事もずっしりと重みを帯びてくるものです。
ゆきこちゃんもニューヨークの生活から日本へと環境を変えるために日本に帰っていきました。彼女の人生です。環境を変えることで彼女も新しいことに出会って新しい生活を始めるのですから、淋しくても私は心からそういう彼女の決断を応援したいと思います。私も、ゆきこちゃんがいないニューヨークという新しい環境になりました。ゆきこちゃんが日本に帰国することは随分前から知っていましたから、私もこの日に備えて自分の生活をちょっとずつ変えてきたと思います。なので新しい環境のニューヨークで私は1年前とはちょっと違った生活を始めています。
11年前にニューヨークに来た当初は、本当に辛い毎日でした。なかなか友人もできない、体調を崩しても心配してくれる人もいない、自分で決めてニューヨークに来たのですから、日本の親や友人に弱音も吐けませんでした。そんな中で私は仕事を頑張ることだけにすがっていたことがありました。そんな風にがんばり続けていたある日、会社に日本の宮田さんから大きな茶封筒に入ったものが届きました。相田みつを、という書家の言葉でつづったカレンダーでした。宮田さんの字で頑張れよ、っていうメッセージが書いてありました。私は、その時に緊張の糸がぷつっと切れて、オフィスだったにもかかわらず涙がとまらなかったことをとてもよく覚えています。その時から私のニューヨーク生活は始まったように思うのです。
だから、この仕事を通して、私は私と縁がある方々にとって、宮田さんでありたいと思っています。ゆきこちゃんにとっても宮田さんでありたいと思っています。これまでこの仕事をしてきた中で出会ってきたみなさんが、少しでも私から、それを感じてくださっているいことを願わずにはいられません。
宮田さん、元気かなぁ。Eメールでも送ってみようっと。
(大矢)